ウォン・カーウァイ(王家衛)は1958年7月17日に上海で生まれた映画監督です。
ショート・ストーリーに長け「都会の中のすれ違い」や「群衆の中の孤独」をテーマにした名作がいくつかあります。このページでは私がウォン監督作品と出会った経緯、監督の経歴やフィルモグラフィーをまとめています。
監督作品リスト
公開年昇順に下のとおりです。
- 1988年:いますぐ抱きしめたい(旺角卡門)
- 1990年:欲望の翼(阿飛正傳)
- 1994年:恋する惑星(重慶森林)
- 1994年:楽園の瑕(東邪西毒)
- 1995年:天使の涙(墮落天使)
- 1997年:ブエノスアイレス(春光乍洩)
- 2000年:花様年華(花様年華)
- 2004年:2046(2046)
- 2004年:「若き仕立屋の恋」(手)
- 2007年:マイ・ブルーベリー・ナイツ(My Blueberry Nights)
- 2008年:楽園の瑕 終極版(東邪西毒 終極版)
- 2013年:グランドマスター(一代宗師)
ウォン・カーウァイ作品との出会い
2003年10月にみた「恋する惑星」とフェイ・ウォン
長年ハリウッドの大げさな映画程度しか観たことのなかった私がウォン・カーウァイを知ったのは2003年の10月でした。その前年からCDに嵌っていたフェイ・ウォンが出演した「恋する惑星」をDVDで観たときです。
この作品でのフェイ・ウォンは、彼女の音楽に対する雰囲気とは違って余り気合いが入っておらず、好きな男の部屋に忍び込んで毎日掃除に励み、自分自身の行動だけを楽しんでいるかのように振る舞っていて面白かったです。

ウォン・カーウァイ監督「恋する惑星」 (c) 1999 Block2Pictures Inc. All Right Reserved.
トニー・レオンと金城武
また、トニー・レオンも優しそうな雰囲気一杯に演技をしていて、金城武もフェイ・ウォンに負けずとパイナップルの缶詰を一日に何個も食べるという天然のバカさを見事に発揮しています。おまけに金城は喉が焼けて次の出演作「天使の涙」では口がきけなくなっています。
当時の私には場面の展開も一場面のアングルも、ラテン系のノリでガンガンにやってくる音楽も、全てが新鮮でした。これが香港映画なのかと茫然自失、1990年代にウォン・カーウァイを知らなかったことを悔やみ、どこか取り残された気分になったものです。
ウォン・カーウァイ映画の遊び感覚
このような俳優たちの面白さだけでなく、ウォン・カーウァイが「恋する惑星」で余すところなく発揮する遊び感覚。
前半では金城武が瞬間的に恋をします。相手の女性は映画の前半でサングラスを四六時中かけたままでした。だから映画だけではその女優が誰かを特定できません。

ウォン・カーウァイ監督「恋する惑星」 (c) 1999 Block2Pictures Inc. All Right Reserved.
ブリジット・リンのサングラス
この監督作品を教えてくれた当時の恋人から、その女優がブリジット・リンという台湾出身の有名女優だと知りました。これはメチャメチャ失礼じゃないかと少し怯みましたが、この大胆さの前に、善悪の判断から離れた心地よさを感じたもの確かです。
そもそも、サングラスを最初から最後までかけさせるのが女優に対して失礼だとすれば、女優はその点を抗議すればいいし、話がまとまらなければ降板という手段も考えられます。
そこで「じゃあ、なんで出演したんだ?」という疑問がわきます。今でもサングラスの詳しい経緯は知りませんが、安直には「ウォン・カーウァイだから」と答えることができるでしょう。なぜなら、彼の手に掛かれば映画撮影という仕事が祭りとなって、数年越しのオリンピックになってしまうのですから。
スベテガ王家衛ノマエデハユルサレル
≪スベテガ王家衛ノマエデハユルサレル≫…。いくつかの作品をみていくなかで思ったことです。
もっとも『恋する惑星』の撮影期間は4ヵ月ほどでしたが、ウォン・カーウァイの撮影はどうも一大イベントになる傾向が強いです。
この「お祭り」という点がウォン・カーウァイの特徴の一つです。ブリジット・リンの他の映画を観れば観るほど、ウォン・カーウァイの遊び感覚が強烈に活きてきます。ブリジット・リン本来の演技力もますます輝いてみえてきます。
ウォン・カーウァイのマジック
おそらく、ウォン・カーウァイのマジックは彼自身だけでなく俳優たち皆が輝ける舞台を作ることにあると思います。例えば、チャン・イーモウの愛人として女優にのし上がってきたチャン・ツーイーも「2046」では、今までとは大きく違う役を引き受けました。そして見事に映えた演技をしました。
「2046」でチャン・ツーイーに首ったけ
この映画で誘い誘われる女・純粋な女性・官能的な女・悪戯っぽい女の子という役柄を同時に演じ切ってしまう20代半ばのチャン・ツーイーに首ったけになりました。私は「2046」を観るために1ヶ月で4回も映画館へ通いました。観るごとに凄みが伝わってくる彼女に会いたくなったからです。
そして「英雄」や「十面埋伏」で出し切れなかった「痛げな女の子」の側面を表現させ尽くしたウォン・カーウァイも惚れ直しました。

ウォン・カーウァイ監督「2046」 (c) 2004 Block2Pictures. Inc.
まとめ
嫌いな俳優でも好きになれる、好きな俳優はますます好きになる、そして何よりも音楽が軽やかで映像が美しい。これがウォン・カーウァイから脳髄ショックを受け続けたい私の感想です。
デビューまで
1963年、5歳の時に末っ子の彼だけが両親と一緒に香港へ移住。九龍半島チムサーチョイ(尖沙咀)の共同住宅に暮らしました。
小学生の時、放課後に母親と毎日映画館へ通いました。この頃、文化大革命が激化し、兄や姉とは正常な交流が難しくなりました。
中学卒業後、香港理工学院グラフィック・デザイン科に進学。在学中は、ジーンズ・ショップでアルバイトをし、そこで現夫人のエスター・チャンと知り合いました。
1980年に香港理工学院を卒業し、香港のTV局TVBへ入社。フィルム班の製作スタッフを担当しました。そこで1年間ほど、無線テレビ第一期育成訓練クラスの監督養成コースで学び、その後の半年間、実習を受けましたがフィルム班の製作が中止。これを機に映画界へ転身を決意します。後、脚本家・助監督・製作助手を務めました。

ウォン・カーウァイ
映画界デビュー
1982年、脚本家として「彩雲曲」で映画界にデビュー。その後、フランキー・チャンの主演作や、チョウ・ユンファ主演の「江湖龍虎門」(マカオ極道ブルース)など、十数本の脚本を手がけました(ノークレジット作品も多数)。
1987年、尊敬する映画作家パトリック・タムの監督作「最後勝利」の脚本を担当。この作品は翌1988年4月に香港金像奨脚本賞にノミネート。以後、友人のジェフ・ラウと一緒に、アラン・タンが設立した製作会社イン・ギア・フィルムの契約脚本家となりました。ジェフ・ラウの監督デビュー作「バンパイア・コップ」(猛鬼差館)に脚本家・執行監製として協力。この関係は続編にも引き継がれました。
映画監督デビュー
いますぐ抱きしめたい
1988年、アラン・タンのオファーを受け、アンディ・ラウ主演の「いますぐ抱きしめたい」で映画監督デビュー。同年6月に香港を先がけに公開。このデビュー作は、翌1989年に香港金像奨で助演男優賞・美術賞を受賞。同年、カンヌ国際映画祭(批評家週間)に出品し、カメラドール(新人監督賞)にノミネートされました。
これを機に「恐ろしき子供」として脚光を浴びます。同1989年、香港6大俳優を共演させた「欲望の翼」がクランクイン。
以後、都会をターゲットにした恋愛映画やヴァイオレンス作品を中心に、ロード・ムービー・スピリットと現場主義による斬新な映画手法を積極的に展開します。
欲望の翼
約2年に及ぶ長期の撮影期間を経て、1990年12月になって「欲望の翼」がクランク・アップ。当初は二部作の予定でしたが完成したのは一部。披露試写会当日の上映開始時間がすぎても編集が間に合わず、試写中に上映が中断されるハプニングが起こりました。
同12月15日に香港公開。1千万香港ドルの興行収入に留まり失敗といわれていますが、ウォン・カーウァイのファンやレスリー・チャンのファンの間では、恐らく最も人気の高い作品です。
また、批評家にも絶賛されました。公開翌年の1991年に台湾金馬奨で、監督賞・助演女優賞・編集賞など5部門で受賞。4月には、香港金像奨でグランプリを受賞しただけでなく、監督賞・主演男優賞など5部門を受賞。
ジェット・トーン・プロ(澤東製作有限公司)設立
興行的には失敗したものの、ファンや批評家を魅了したこの作品をステップに1992年の夏、ジェフ・ラウとともにジェット・トーン・プロ(澤東製作有限公司)を設立。
楽園の瑕
1992年10月に香港9大スターが共演する「楽園の瑕」の撮影がクランクインしました。
出演者のスケジュール調整が困難なうえ、初挑戦の武侠アクションの演出にも手こずり、撮影は難航しました。やがて予算が底をついたこともあり、数度にわたって製作が中断します。
この作品は翌1993年2月の春節祭(旧正月)の公開予定に間に合わず、急遽ジェフ・ラウが同じ9人の出演者を集めて「大英雄」(新射雕英雄傳之東成西就)を撮影し公開。これが大ヒットしました。
他方「楽園の瑕」でジョイ・ウォンとヴェロニカ・イップが降板し、代わりにチャーリー・ヤンが起用されます。それがかえってストーリーや役柄など、映画構成の改変に拍車がかかります。
結局この作品がクランクアップしたのは1994年2月のことで、クランクインから実に1年4ヶ月を経ていました。さらに仕上げ作業が遅れ、カンヌ国際映画祭の開幕に間に合わず出品を取りやめました。
恋する惑星
その1994年2月、公開を待たずに「恋する惑星」の撮影が数ショットだけ行なわれました。翌々月の4月に「恋する惑星」が本格的にクランクインし、「楽園の瑕」の長丁場とは逆に、重慶マンションをはじめとする香港市街地を舞台に、夜間を中心とした短時間のゲリラ撮影が繰り返されました。
「楽園の瑕」に先がけて1994年7月に「恋する惑星」が香港で公開されました。作品の統一感やストーリー性を軽視し、瞬間的な場面をクローズアップする斬新な手法が話題をよびました。
この余勢をかって、未公開のままだった「楽園の瑕」のポスト・プロダクション作業を再開。モノローグだけを一部録音し直して貰うようレスリー・チャンにお願いし、ようやく完成を迎えました。
この作品は難しいといわれますが、そんなことはありません。「恋する惑星」を楽しく見る方法は次の記事をご覧ください。
再び「楽園の瑕」
同1994年9月、カンヌ映画祭の代わりとして選ばれたヴェネチア国際映画作へ「楽園の瑕」を出品。金のオゼッラ賞(芸術貢献賞)を受賞しました。同月17日に香港で公開。興行は惨敗で、興行収入の1000万香港ドルに対し、製作費は3,500万香港ドル、ないしは7,500万香港ドルなどといわれています。
内容が難しいという理由で、各地の劇場で多数の観客が激怒・退場したとのこと。期待している所が違うと私なんぞは飽きれます。なお、この年に長男が誕生しています。
再び「恋する惑星」
翌1995年「恋する惑星」が台湾金馬賞で主演男優賞(トニー・レオン)を受賞。4月の香港金像賞ではグランプリをはじめ、監督賞・主演男優賞・編集賞を受賞。同じ1995年1月にニューヨークで特別上映されたのをはじめ、パリで3月、ロサンゼルスで6月(特別上映)と、この作品は海外のあちこちで公開され、大きな反響を呼びました。
1997年「ブエノスアイレス」でカンヌ国際映画祭最優秀監督賞を受賞。
1999年に「花様年華」と「2046」の撮影が開始されました。
2000年代
「ブエノスアイレス」の公開から3年経った2000年、既婚男女のプラトニックだが強烈に濃厚な恋愛を描いた「花様年華」を公開。
BMWのインターネットサイトの短編映画集シリーズ「The Hire」に「The Follow」を提供。アン・リー、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ガイ・リッチー、ジョン・フランケンハイマー、ジョン・ウーらが参加しました。その頃、DJシャドウの「Six Days」のプロモーション・ビデオも手がけました。
ミケランジェロ・アントニオーニとスティーヴン・ソダーバーグとコラボレートしたオムニバス映画「エロス」(2004年)でコン・リーとチャン・チェン主演のエピソードを監督しました。単独作品名は「若き仕立屋の恋」といいます。
1999年から撮影に入っていた「2046」は2004年にようやく完成。同年春にカンヌ国際映画祭へ出品され、中国語圏では9月、日本では10月に公開されました。
ウォン・カーウァイ映画では欠くことのできない男優となったトニー・レオン扮する作家が、現在の自分自身と、小説に託した近未来の自分自身を行ったり来たりする異次元的な作品です。コン・リー、カリーナ・ラウ、フェイ・ウォン、チャン・ツーイーらビッグスターの起用はもとより、CG、カメラ・アングル、音楽、照明、衣裳など、さまざまな技術・道具が結集した強烈な映像美として評価されています。
2010年代
ブルース・リーの師匠イップ・マンの半生をテーマにしたカンフー映画「グランドマスター」を2013年に公開。ドニー・イェンのシリーズとは一味違う渋いイップ・マンをトニー・レオンとともに描きました。
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